ブログ/On the day /
  • リスキリングなどという動物愛護的にも気持ち悪いカタカナで私たちに強要しないで!

    映画『ぬけろ、メビウス!!(監督:加藤慶吾)』本当の勉強とは何かを考えた

     

    本筋からそれてしまうかもしれないが、この映画はドゥルーズ、分析哲学、言語論的に「勉強とは何か」を語った * (千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』)を下敷きにして楽しんでみた。

     

    <あらすじ>

     予想される未来に流され続きてきた主人公は、雇い止めの不安から始めた友人の宅建試験へのチャレンジを知る。主人公は、宅建ではなく大学の教育学部の入試にチャレンジすることを決断する。

     

     環境や他者から自分がつくられていると気づいた主人公。自ら決断を下していよいよ動きはじめると、見ている風景がもとの風景とは異なることを知る。その後、ふとしたことから恋人と離別したり、退職したりと周囲は驚きを隠せない。

     

     1周して戻ってくると向きが逆転するのがメビウスの帯である。しかし、主人公は本当の勉強をした。本当の勉強とは自己破壊・喪失であって獲得ではない。同じところには戻らないのだ。 *(つまり「来るべきバカ」になったのだ)

     

     大学入学を目指したユニークさで、主人公はその後をどのように駆けぬけることができたのかはこの映画では明かされていない。観客はその後の主人公と会いたい、語り合いたいと猛烈に思うだろう。 *(来るべきバカを歓迎するとともに、バカ同士のコミュニケーションは楽しいのだ)

     

    よろしければ、映画を観て楽しんでください。

     

    <参考 下敷き図書>

    千葉雅也(2020)『増補版 勉強の哲学 来るべきバカのために』文藝春秋社 

    本書の内容を簡単な言葉で私は説明できませんが、次のようなことが書かれています。

    ・ 勉強とはこれまでの自分の自己破壊である。別の考え方に引っ越すこと、新しいノリに入ること。不慣れな言葉への違和感に注意すべし。特定の環境における用法から開放され、別の用法を与え直す可能性に開かれている。言葉遊びこそ、生の可能性を豊かにするのだ。(玩具的な言語使用)=「ラディカルラーニング(深い勉強)とは、ある環境に癒着していたこれまでを自分を玩具的な言語の使用の意識化によって自己破壊し、可能性への空間へと見を開くことである」

    ・ 環境のノリから自由になるには、ノリの悪い語りをすること(=自由になるためのスキル)である。その思考方法は「ツッコミ=アイロニー 根拠を疑って真理を目指す」と「ボケ=ユーモア 根拠を疑うことはせず、見方を多様化する」だ。勉強の基本姿勢はアイロニカルな姿勢で、環境のコードをメタに客観視することである。ただ、アイロニーを過剰化せずに(絶対的に真なる根拠を得たい欲望に駆られるが、それは実現不可能な欲望だ。言語の破棄を目指すことになってしまう)。そこでユーモアへと折り返すことを推奨する(言語はそもそも環境依存的でしかないと認めることであらゆる見方への移動が可能になり、さらにはあらゆる言葉が接続可能になる。それを続けると言語が意味飽和し、機能停止に陥るはずだが、事実上私達の言語使用ではユーモアは過剰化しないである見方が仮固定することになる。享楽的こだわりがユーモアを切断するのだ。それは私達一人ひとりに個性=特異性としての「享楽的こだわり」があるからだ。しかも享楽的こだわりは常に変化する)つまり続くのだ。

    ・ 自己アイロニーと自己ユーモアの発想によって、自分の現状に対する別の可能性を考える。身近なところから問題を見つけ、キーワード化し、それを扱うにふわさしい専門分野を探す。専門分野は深追い(アイロニー)方向と目移り(ユーモア)方向にきりが無くなる。したがって勉強を有限化する方法を考えなければならない。アイロニー的な有限化は「決断主義(逆説的に絶対的な無根拠こそが絶対的な根拠)であり、これは回避すべき。ユーモア的な有限化は「比較の中断」だ。絶対性を求めず、相対的に複数の選択肢を比較し続けるが、途中でベターな結論を仮固定し、また比較を再開する/個々人に享楽的こだわりがあるからこそ可能である)「保守的なバカ」から「来たるべきバカになるのだ」

    映画の主人公は学歴社会や都会をアイロニーで、受験をユーモアとして新しい(来るべき)バカを目指しているのかもしれません。

  • 官邸主導で行われている「新しい資本主義」の議論の第3回のテーマは人的資本である。

    事務局の提示するデータによれば、

    1)企業の人材投資はGDP比で0.1%未満。先進国中で圧倒的に低く、しかも低下傾向にある。

    →そもそも人材への投資余力がなかったからだろうか?

    2)大手中小企業ともに、賃金や設備投資などは大きく変わっていないが内部留保は増えている。

    →これでは余力がなかったとは言えない。企業の競争力が失われている理由の一つだろう。それはこの20年間、常に指摘されてきたことであるし、その状態は現在も進行している。

    これらのことから「人に投資をしないことに対するなんらかの合理性があった」と私たちは考えるべきではないか。それはどのような理由なのだろうか。

    「人的資本経営」の議論の前に、その理由を明らかにすることが大切だ。前を向いているようなふりをして指標をこねくりまわしても、意味のある投資は実現しない。さらに遠回りするだけだろう。

    巷で言われる防衛費1→2%は贅沢な投資/経費に見える。

    参考 事務局データ

    https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/index.html  https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/kaigi/dai3/gijiyousi.pdf

Copyright (C) BR human Co.,Ltd. All rights reserved.